陸軍登戸研究所

陸軍登戸研究所は、 1939年4月に陸軍科学研究所の秘密戦資材研究室を登戸出張所として神奈川県の稲田登戸地区に設置した。
1942年に陸軍兵器行政本部管轄の陸軍第九技術研究所となり、参謀本部第二部第八課に直結していた。 参謀本部第二部第八課は、謀略・諜報を指揮していたので、陸軍中野学校、特務機関および憲兵とは深い関係を持っていた。
また、陸軍習志野学校および陸軍第六技術研究所と化学兵器研究に関係があり、 陸軍軍医学校と関連し、関東軍第七三一部隊・第一六四四部隊と細菌兵器研究に関係があった。
当時は、秘匿名を陸軍登戸研究所とされ、看板も「陸軍登戸研究所」と掲げられていて、 地元では陸軍の実験場と呼ばれていたようである。
その実体は、秘密のベールに包まれていたが、1948年の「帝銀事件」によって僅かではあるが明るみにされた。
「帝銀事件」の犯行に用いられた毒薬が、陸軍登戸研究所で開発された青酸ニトリールの可能性があるとして、 取り調べられたのである。 研究所所員が七三一部隊の支部である一六四四部隊において「帝銀事件」の犯行と同様の方法で青酸ニトリールの 人体実験を行っており、実行犯が元七三一部隊員のS氏の可能性が濃厚であった。 GHQと深い関係を持つ歯科医師のN氏も犯人の可能性がもたれていた。
しかし、おそらくGHQの謀略によって、逮捕されたのは平沢貞通氏であった。 平沢氏は、物的証拠は何もなく、拷問による自白(偽造自白書の可能性大)のみを証拠に死刑判決を受け、 死刑確定後も再審請求を何度も繰り返して冤罪を訴えるも、獄死された。 その後も遺族が再審請求を行い、無実を明らかにしようとしているが……。
「帝銀事件」の追求は、本論から外れるので関連書を参照されたい。
戦後50年余を経ても陸軍登戸研究所の全貌は明らかにされていない部分がある。 が、かなり研究が進んでいて公表された書籍もあり、それらを研究・考察し、 政府謀略機関にとって都合の悪い秘密(細菌・毒物研究および人体実験)の部分について迫って行こうと思う。

陸軍登戸研究所の概要
 
兵器行政本部の研究
 
秘密戦資材とは
 

主要参考文献



(C)J. Shinshi
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