吉永小百合の未映画化作品

映画の製作は、プロット(あらすじ)や企画書の検討から始まる。この段階で没になる事が多いので、未映画化の範疇には入れない。
企画が通ったら、シナリオの執筆に取りかかる。書き上ったシナリオを基に、製作準備としてスタッフ・キャストが集められる。通常この段階で製作発表されるので、映画の撮影準備が衆知のものとなる。(シナリオ執筆中に発表された場合もある)
なお、シナリオは関係者以外には見せてはいけないのが原則なので、公表されていないものについての問い合わせはご遠慮願いたい。


1963年「交換日記」(日活)

この作品は、レコード「虹子の夢」/吉永小百合と「交換日記」/浜田光夫が先行発売され、吉永小百合と浜田光夫の主演で企画されていたが、実際には和泉雅子と山内賢の主演で製作された。この年は立て続けに撮影されていたので、スケジュールが都合できずにキャスト変更されたのだろう。

スタッフ

主要キャスト

概略

虹子と啓介は、下駄箱を利用して日記の交換をしていた。虹子が下駄箱を間違えたことから、二人の間の交換日記も人に知られた。
そんな頃、クラスの討論会で男女交際について激論となり、虹子と啓介にホコ先が集中する。怒った啓介は大暴れし、退学処分を言い渡された。虹子を中傷した生徒達も行き過ぎだったと非を認め、啓介の善処を要望する運動を起した。
その後、退学処分撤回を知らせされた啓介と虹子は、青春の思い出の日記を焼き、卒業して大人にならなければと二人は誓いあう。
個人的には、日活撮影所の近くにあった京王遊園でのロケが懐かしく思い出される。(1963年5月26日公開)


1963年「小麦色の仲間たち」(日活)

まぼろしの作品「小麦色の仲間たち」は、企画され脚本も完成していたが、結局映画化されなかった。その内容は、あまり知られていないので、紹介することにする。「キューポラのある街」に続く社会派ドラマとして期待していたが、その後テレビ・ドラマや演劇化されたものの、とうとう映画化されなかった。

スタッフ

主要キャスト

概略

舞台は下町の葛飾、ある日、牧男と工員たちが食堂イヅミ屋で朝食を摂っているときに、イチ子の弟が交通事故の知らせが入った。下町診療所で京子に診察を受けている待合室に、イチ子、牧男、新治、バイクの青年が集まり、治療代の支払い交渉をしている。映画の始まりのシーンで、人物関係を把握させているのである。
その夜、イヅミ屋で牧男、新治、五郎がビールを飲んでいる時に、学校の体育館を建てるのに高額な強制寄付を募っている話題が出て、牧男がイチ子の前で新聞に投書をしてやると息巻いた。この発言が後に大事件に発展して行くのである。
数日後、新聞記者の訪問を受けた牧男は、「義務教育の施設は国が負担すべきで、強制的な寄付を募るのは不信であり、調査の必要があると思う。」という投書があったことを知る。寝耳に水の話であるが、皆のけしかけに認めてしまう。
後日、本当の投書をした人物を見つけることにするが、判明しない。そうこうする内に投書は新聞に掲載された。その結果、工場で嫌がらせを受け、アパートを追い出される事になった。こうなったからには、投書本人になりきって寄付反対の運動をしていくことにする。その姿を見て、イチ子は牧男を頼もしく思うようになる。
ある日、牧男はチンピラ達に暴行を受ける。そして、PTA会長の古田に、この真相を公表して欲しくなければ謝罪を求めるという交渉を行う。イチ子は、けがをした牧男を見舞うが、言葉の行き違いでお互いに気まずくなる。
牧男が暴行を受けた真相を町中に知らせ、体育館を全額公費でまかなう町会総会を開く決意を聞いたイチ子は、居たたまれなくなってしまう。
イチ子は、牧男を訪ね、投書を書いたのは自分であることを告白する。どうしてそんなことをしたのかは、「あなたを好きだから。」と好意も告白してしまう。
数日後、体育館は寄付なしで建てることに決まった。アパートの前で、その喜びを放送局の記者のマイクに向かって話す皆に、牧男は「自分の家に便所が欲しい。」と発言して大笑いになる。
翌日、仲間たちが牧男のために便所作りを始める。イチ子が出前するという”むすび”が遅いというので、牧男が迎えに行き、途中で鉢合わせとなる。イチ子を後ろに載せた自転車が遠ざかるところでエンド・マーク。


1964年「たけくらべ」(日活)

『たけくらべ』は、原作:樋口一葉の名作小説。
吉永小百合と浜田光夫による何回かの企画および製作の告知があって、完成を楽しみにしていたが、何故か撮影が開始されなかったらしい。詳細は不明。

概略

吉原の廓に住む少女・美登利と僧侶の息子・藤本信如との淡い恋を描いた作品。
美登利は信如に好意を抱いているが、信如が美登利を避けるようになり、彼女は悶々とし続ける。そして子供たちによる町内組の対立や大人達との反抗。
見せ場は、信如が美登利の家の前を通りかかった際、彼の下駄の鼻緒が切れてしまう場面。 2人の心は遠く離れており、そんな折の思わぬ再会。言葉のやり取りは殆ど無く、心の動きだけで魅せる名場面が想像される。
鷲神社の祭りの日、美登利は髪形を島田髪に変えた。子供時代は終わり、美登利は遊女に、信如は僧侶に、運命に流される儚さと切なさが描かれる。


1965年「おお牧場は緑」(日活)

熊井啓のシナリオおよび監督、吉永小百合主演での製作だったが、クランクイン寸前に彼女には合わないということで中止となった。シナリオは未見。

概略

日本アルプスを展望する信濃高原、自然の中に育くまれた若者の愛を描く。大自然礼賛と、レジャー開発による自然破壊を告発する作品。
後年、「朝やけの詩」として映画化されたが、撮影中に自然破壊してしまい、環境庁からクレームがあった。また、シークエンスのつなぎに、自然の描写がモンタージュされ、ドラマ性が損なわれるという失敗作である。自然は美しいだけではなく、災害をもたらすので、如何に保護してゆくのかを掘り下げて構成すべきと思う。
「朝やけの詩」のシナリオは、『キネマ旬報・615号(1973年10月上旬)』(1973年10月27日公開)

1967〜68年「協奏曲」(日活 → 松竹)

主題歌「ひとりの時も」を荒木一郎とのデュエットで先行発売していたが、日活は業績が悪く海外ロケもあっての資金難で製作を断念した。その後松竹での製作が検討されたが、映画界の五社協定(専属の監督・俳優を貸さない、借りない、引き抜かない申し合わせ。映画産業の斜陽化により1970年代に自然消滅)の問題もあり実現しなかった。シナリオは未見。

スタッフ

主要キャスト

概略

かつての恋人で、今は外交官夫人になっている女性・淑子を忘れられず、再会を期してフランスへ渡る中年作家・千葉。また、海外取材という名目で、千葉のあとを追う、天衣無縫に生きる若い女性アナウンサー・弓子。そこにはお互いの思慕と狭間に身を置く千葉と淑子の姿があった。弓子を愛する押見とドーバー海峡横断競泳にかける安川、二つの世代の恋愛と苦悩、その心理的葛藤を描く。
詳細は不明。

1968年「忍ぶ川」(日活)

スタッフ

主要キャスト

概略

1966年の夏、熊井啓がシナリオ、大塚和の企画で映画化を申し出るも却下される。ほぼ同時期に横山実は、松山善三のシナリオ、吉永小百合主演の企画で映画化の許可を得た。熊井啓は、横山実と組んで吉永小百合の「忍ぶ川」を製作することにする。
だが、1967年1月に製作責任者の江守清樹郎専務や山根啓司撮影所長ら6人が突然退任させられ、製作続行が危ぶまれた。何とか危機を脱し、1967年4月に吉永小百合ファンクラブ誌「さゆり」掲載の対談を行う。小百合もかなり意欲的で、1967年10月に開催したリサイタルではミュージカル「忍ぶ川」を米倉斉加年と共演、熊井啓も1967年10〜12月号「さゆり」誌上に『映画物語・忍ぶ川』を執筆する程だった。しかし、日活は江守らの退任により業績が急激に悪化して弱体化し、発足したばかりだが吉永事務所が製作決定権を持つようになっていた。1968年2月に吉永事務所の社長と具体的な製作方法について協議するも決裂してしまう。

哲郎と志乃は料亭《忍ぶ川》で知りあった。料亭の看板娘・志乃に惹かれた哲郎は、足繁く通うようになり、話が深川のことに及んだ時、志乃は私の生まれた土地で、もう8年も行っていないと言う。哲郎は志乃を誘い、薮入りの日に深川を案内する。
ある夏の日、志乃に婚約者がいることを知らされた。志乃に問いただすと、婚約はしたけれど、気は進まないという。哲郎は「その人のことは破談にしてくれ、そして、お父さんにあんたの好みに合う結婚の相手ができたと言ってやってくれ」と言う。
秋の終わり、志乃の父の容態が急変し、哲郎は志乃の後を追って行った。「至らぬものですが、志乃のことは何分よろしゅうお願い申します」と言い残し志乃の父は死んだ。
大晦日、哲郎は志乃を連れて故郷へ帰る。翌る2日に家族だけで哲郎と志乃の結婚式が挙げられた。初夜、馬橇の鈴のさえた音に、一枚の丹前に包まり雨戸を細目に開け、馬橇の通り過ぎるのをいつまでも見ていた。
馬橇が夜の雪景色を横切るシーンは、スタンダード・サイズでなく、やはりワイドスクリーンで表現して欲しかった(ストーリーがテレビ・ドラマ的なので、映像は映画として表現すべき)。
シナリオは、『キネマ旬報・579号(1972年5月下旬)』および『年鑑代表シナリオ集・1972年版』で、日活でのものと殆ど変わっていない。(1972年5月25日公開)


1970年「あゝ野麦峠」(吉永事務所)

スタッフ

主要キャスト

概略

丸市製糸で働く工女たち、やがて年の暮れには工場が閉業になり、一斉に故郷に帰る。そして、過酷な野麦峠越えが日本アルプスの美しい光景と共に描かれ、様々なエピソードも盛り込まれている。
年を越し再び工女は野麦峠を越え、工場に戻る。ユリは、佐藤から借りた細井和喜蔵著『女工哀史』が長瀬に見付かり責められる。やがて佐藤から労働組合の参加を促され、工女の殆どが加入する。組合は、工場に嘆願書を提出し、受け入れられないのでストライキに突入するが、警察によって弾圧される。スガらが寝返って工場に戻るも、ユリたちの闘争が続くが、結果は敗北であった。
原作と言っても、ノンフィクションなので、どのエピソードを主体に描くかのスタッフ間の意見相違があり、製作中止となってしまった。しかし、劇団民藝の演劇「あゝ野麦峠」として、大橋喜一の脚本、宇野重吉と早川昭二の演出、日色ともゑ、佐々木すみ江、大滝秀治等の出演で上演された。観劇してみたのだが、女工らによるストライキでの待遇改善が主なテーマだった。
吉永小百合および吉永事務所の製作意図と全く違うシナリオでは、映画化を断念せざるを得ないと思う。それは、苦渋の決断だったに違いない。

1979年6月に公開の脚本:服部佳、監督:山本薩夫の「あゝ野麦峠」。年若い女性たちが飛騨から過酷な野麦峠越えを経て、信州の製糸工場へ出稼ぎしていた。その中の一人の政井みね(大竹しのぶ)が厳しい労働条件にもかかわらず、模範工女として一目置かれて働いていた。だが工場で病気になり、兄がみねを担いで帰る。途中の野麦峠で「ああ、飛騨が見える」と懐かしそうに言って息を引き取った。この様に、政井みねを主体的に描くことで絶賛されたように、この作品が吉永小百合の製作イメージに近かったと思われる。
しかし、続編として1982年2月に公開の脚本:山内久、監督:山本薩夫の「あゝ野麦峠・新緑篇」が工女らによるストライキを描いたことにより不評作となった。
八木保太郎によるシナリオは、『キネマ旬報・511号(1969年12月上旬)』
服部佳によるシナリオは、『キネマ旬報・762号(1979年6月上旬)』および『シネ・フロント・37号(1979年6月)』および『年鑑代表シナリオ集1979年版』
山内久によるシナリオは、『シネ・フロント・67号(1982年1月)』および『シナリオ・404号(1982年3月)』

1975〜76年 ?「戦争と人間・第四部」(日活)

スタッフ

戦争と人間シリーズは、五部作の予定だったが、日活のロマン・ポルノ路線下では、第三部を完結篇として1973年に終わらせる事になったので実現しなかった。泥沼の日中戦争から戦火はアジアに広がり、太平洋戦争に突入する様相が描かれる予定だったそうである。

1977〜78年「学校」(松竹)

スタッフ

主要キャスト

概略

キャスト表が無いので、勝手にキャスティングしてみた。窪川晟(54・教諭):松村達夫、織田芳子(29・教諭):吉永小百合、浅田きぬ(27・生徒):倍賞千恵子、川添久子(38・生徒):浅丘ルリ子、西脇角造(44・生徒):渥美清(年齢はキャストに合わせて変更しよう)。また、様々なエピソードをつないで卒業式に帰結する構成なので、ほんの一部の紹介とする。山田洋次監督が製作を断念したのも、感動的な話の羅列だからと言う。
浅田きぬがヤクザに連れ去られて、暴力バーで働かされていた。窪川晟は、そのバーに単身乗り込み連れ戻す。ヤクザは教育委員会に「窪川は生徒を斡旋してカネを懐にしている」という卑劣な中傷の手紙を出し、生徒の木口を暴行する。ヤクザの達岡は逮捕されたが、新聞には浅田がヤクザ男の情婦と書かれ、文部省の役人から夜間中学の廃止、成人学校の創設を促される。窪川は「生徒らは昼間稼がないと食えない事情がある。そういう彼らを文部省が一切面倒をみてくれるなら結構。だが、成人学校に組み入れるのは憲法の教育基本法の侵害になりませんか」と反論。その時、浅田が屋上から飛び降りようとの騒動が。窪川は浅田を救い、「辛い思いで学校に来ているのはお前一人じゃない、みんな同じ仲間だ」と諭す。卒業式後、織田芳子は教育委員会宛の昼間の学校への転任届を破き、新入生の申し込みに応対する。

なお、『学校』は、1993年11月に、原案:廣澤榮、脚本:山田洋次と朝間義隆、監督:山田洋次で実現した。窪川→黒井文人:西田敏行、織田→田島蛍子:竹下景子、浅田→みどり:裕木奈江、そして新たなキャラクターにイノ(猪田幸男):田中邦衛を加え《この作品の狙いがこれだ》、東京の下町にある夜間中学校を舞台に、様々な境遇を持つ生徒たちと先生との交流を描く作品。この作品の白眉は、イノさんの訃報に接し、"幸福とは"と皆で話し合うシーン。廣澤榮のシナリオからのエピソードを交えて、実に見事な構成である。
原案シナリオは、『シナリオ作法(廣澤榮・著、ダヴィッド社・1985年4月15日発行)』
山田洋次と朝間義隆によるシナリオは、『岩波同時代ライブラリー「学校」(岩波書店・1993年10月15日発行)』および『シネ・フロント・205号(1993年11月)』《作品分析》
(c)J. Shinshi

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