戦争・原爆と映画

戦争・原爆と映画

● 百番目のサル

1952年、宮崎県の日南海岸にある幸島で不思議なことが起こりました。
餌付けされたサルたちにサツマイモを投げ与えていたところ、一匹の若い雌サルが、海水で洗って食べるようになりました。洗って食べると砂も落ち、塩味がついておいしくなること発見したのでした。
少しずつ輪は広がって、イモを洗って食べるサルが一匹ずつ増えました。10匹、20匹、30匹、40匹、50匹、60匹、70匹、80匹、90匹。そしてある時、不思議なことが起こりました。
イモを洗うサルが99匹いたとします。そこにある日、とうとう100番目のサルが現れました。100番目がイモを洗った時、次に続いた101番目は、一匹のサルではなく、残りのサルのすべてが一斉にイモを洗い始めたのです。
もっと驚くべきことが起こりました。
大分県の高崎山のサルたちにまでが、次々にイモを洗い始めたのです。

アメリカの作家ケン・キーズ・Jr.氏は、この現象に注目し、核廃絶への希望を見いだしました。
『核のない世界』へと一人の意識を変えます。また一人を変えます。その積み重ねは地道ですが、やがてある一定の人数にまで増えた時、『核の全廃』へと人類の意識が一気に変わるだろうというのです。

この原作を国際平和年記念作品として映画化したのが「100ばんめのサル」で、吉永小百合さんがナレーションを担当しています。ビデオ化されて、シネマ・ワークで入手できます。原爆をテーマとした子ども向けの作品ですが、是非観て欲しいとおもいます。そして、私たちは何をしたらよいのか、あなたも一緒に考えましょう。

なお、原作本や翻訳本などを紹介しますが、既に絶版となっていますので、図書館や古書店で探してみて下さい。

  • 「Hundredth Monkey」 Ken Keys/著、Devorss & Co./発行
  • 「百番目のサル」 ケン・キーズ・Jr./著、Y・モンキー/編、佐川出版/発行
  • 「100ばんめのサル」 ケン・キーズ・Jr./原作、松本茂樹/文、尾崎真吾/絵、国土社/発行
  • 「ひゃくばんめのサル」 ケン・キ−ズ・Jr./原作、北村弓/文・絵、カタツムリ社/発行
  • 「シネ・フロント・115号」(シナリオ「100ばんめのサル」所載) ケン・キ−ズ・Jr./原作、桜井正明/著、シネ・フロント社/発行



● 非核三原則

1967年12月、佐藤栄作(総理大臣)が衆議院予算委員会で、核兵器を『持たず、作らず、持ち込ませず』が政府の政策であると表明した。そして、1971年11月、沖縄返還協定に関連し、衆議院本会議で『政府は、非核三原則を遵守する』との決議が行われた。
その後、約2600の自治体(全国の8割)が『非核宣言』を発した実績から、『非核三原則』は国是という認識である。また、『非核三原則』の法政化の求めに対して、「国是である以上、法律化するまでもない」と政府の見解を示している。なお、1976年には、核拡散防止条約を批推し、核兵器の保有や製造をしない義務を負っている。


● とんでも大臣

岸信介(総理大臣)
1939年商工省次官として朝鮮人強制連行を立案、1941年商工大臣として戦争政治の片棒をかつぐ。戦後はA級戦犯容疑で逮捕され、不起訴となったが公職追放された。戦争責任をうむやむにして、主相の座につく異常さに呆れる。

佐藤栄作(総理大臣)
ノーベル賞委員会が平和賞創設100年を記念して出版した『ノーベル平和賞・平和への100年』の中で、「佐藤氏への受賞は、ノーベル賞委員会が犯した最大の誤りであった」と書かれているそうである。佐藤氏は、1974年にノーベル平和賞を受賞したが、日本の国民は唖然としたものであった。言われるまでもなく、平和賞に値する人物でないことは知っていた。
ジョンソン米大統領との密約「中国が核武装する以上、日本も核武装する」発言、米国が核兵器を積んだ原子力潜水艦などが日本の港に入港していたり、沖縄の米軍基地に核兵器が持ち込まれていた事実を知っての授与ではないと思うが、日本の識者は当然知っていたので、受賞に対する不信は相当なものであった。

西村真悟(防衛政務次官)
1999年11月、『週刊プレイボーイ』誌上で、「政治家としてのライフワークは国軍の創設」、「民族主義者でなければ政治家の資格はない」、「日本も核武装したほうがいいと国会で検討しなければならない」、「核とは『抑止力』で、強姦しても罰せられないなら、みんな強姦魔になっている」、「集団自衛権は、強姦されている女を男が助けること」、「国防とは、愛すべき大和撫子が他国の男に強姦されることを防ぐこと」、などと発言している。国会での答弁でも、まったく反省の意図はなかった。

阿部晋三(官房福長官)
福田康夫(官房長官)

2002年5月13日、阿部氏は早稲田大学で田原総一郎氏との対談で、「憲法上は原子爆弾だって問題ではない」と発言した。
2002年5月30日、福田氏は記者会見の席上で「非核三原則は、国際情勢が変化したり、国民世論が変化すれば、変わることがある」、「核兵器は理屈から言って持てる」、「政策判断として持つのはやめると言うのが非核三原則」などと発言した。

小泉純一郎(総理大臣)
日本国憲法を都合の良い解釈をして戦場に自衛隊(小泉氏は軍隊であると言っている)を送り込んだ。自民党総裁選挙の際の恩人である田中真紀子氏のスカートを踏んづけて進行を妨げるだけでなく、蹴倒して引きずり落とした冷血漢(一例である。恩人に恩を仇で返す人間に政治を任せて良いものであろうか?)に、イラクのレジスタンス(テロでは無い)に拉致された日本人を救出する意志はない。結果、レジスタンスの方が暖かい血が流れているのが、全世界に周知となった。
このページの最下欄に記載した、国連の公式文書となっている「公正な世界秩序のための10の基本原則」を良く読んで欲しい。

政府への苦情窓口へ苦情を送ろう! で、衆議院決算行政監視委員会に苦情を申しでよう。

蛇足:御存知と思われるが、岸信介氏と佐藤栄作氏は兄弟。岸信介氏の一番弟子が福田赳夫氏で、その息子が福田康夫氏。岸信介氏の娘婿が阿部晋太郎氏で、その息子が阿部晋三氏。



● 核の冬

核戦争が起きたら、核爆発の破壊と大火災で大気中に噴き上げられた大量の煙や粉塵が太陽光をさえぎり、地球上に氷点下25度の【核の冬】が訪れます。植物は枯れ、家畜も全滅、生き残った人々は飢えの恐怖に直面するのです。

1983年に米国の天文学者カール・セーガン博士らが提唱、研究が盛んになりました。1985年には国際学術連合会議(ICSU)が「核戦争による環境への影響」と題する研究報告を発表しました。核の冬による寒冷化や食料不足で、世界中で10億〜40億人が死亡すると指摘しています。

ウランの特筆すべき性質は、核分裂反応です。ウラン-235に核分裂の性質があることは、ドイツのオット・ハーンらが1938年に発見しています。ウラン-235に中性子を当てると質量数140付近の元素と95付近の元素と数個の中性子へと核分裂を起こします。この核分裂反応が連鎖的に起きていくことになり、膨大なエネルギーを放出します。このエネルギーを兵器として用いたのが原子爆弾であり、平和的に利用したのが原子力発電です。いずれにしても、ウラン-235の崩壊に伴って放射性の元素が生成されるため、その処理が大変な問題になります。

放射性物質には、半減期というものがあります。放射性物質は、放射線を出すことによって、別の物質へと変化するのですが、放射線の強さが元の半分になるまでの期間を「半減期」といいます。ウラン-235の半減期は、約7億年。ウラン-238は45億年と、ケタ違いの時間が掛かります。
つまり、核の冬が数年で終わった後も、放射線の影響は相当の年月(おそらく何万年)も続きますので、人類の滅亡は確実に訪れます。そして、再び人類の文明を再興するのに何億年かかるでしょう。否、その可能性は無いに等しいのです。




ラッセル・アインシュタイン宣言

1955年7月9日 ロンドン 

 私たちは人類が直面する悲劇的な情勢のなかで、科学者たちが会議に集まって、大量破壊兵器の発達の結果として生じてきた危険を評価し、ここにそえられた草案の精神において決議を討論すべきであると感じている。

 私たちがいまこの機会に発言しているのは、あれこれの国民や大陸や信条の一員としてではなく、その存続が疑問視されている人類、人という種の一員としてである。世界は紛争にみちみちている。そしてすべての小さな紛争の上にかぶさっているのは、共産主義と反共産主義との巨大なたたかいである。

 政治的な意識を持つ者はほとんどみな、これらの問題のいくつかに強い感情をいだいている。しかし、もしできるならば、皆さんにそのような感情をしばらくわきにおいて、ただ、すばらしい歴史をもち、私たちのだれ一人としてその消滅を望むはずがない生物学上の種の成員として反省してもらいたい。

 私たちは、一つの集団に対し、他の集団に対するより強くうったえるような言葉は、一言も使わないようにこころがけよう。すべての人がひとしく危機にさらされており、もしこの危機が理解されれば、皆さんがいっしょになってそれを避ける望みがある。

 私たちはあらたな仕方で考えるようにならなくてはならない。私たちはどちらの集団をより好むにせよ、その集団に軍事上の勝利をあたえるためにどんな処置がとられうるかを考えてはならない。なぜなら、もはやそのような処置はないのだから。私たちが考えなくてはならないのは、どんな処置をとればすべての側に悲惨な結末をもたらすにちがいない軍事的な争いを防止できるかという問題である。

 一般大衆は、そしてまた権威ある地位にある多くに人々でさえ、まだ核爆弾による戦争によっておこる事態を自覚していない。一般大衆はいまでも都市が抹殺される位に考えている。新爆弾が旧爆弾よりも強力だということ、原子爆弾が一発で広島を抹殺できたのにたいして水素爆弾なら一発でロンドンやニューヨークやモスクワのような最大都市を抹殺できるだろうということは理解されている。

 疑いもなく、水爆戦争では大都市が抹殺されてしまうだろう。しかしこれは、私たちの直面しなければならない小さな悲惨事の一つである。たといロンドンやニューヨークやモスクワのすべての市民が絶滅したとしても二、三世紀のあいだには世界は打撃から回復するかもしれない。しかしながら今や私たちは、とくにビキニの実験以来、核爆弾は想像されていたよりもはるかに広い地域にわたって徐々に破壊力をひろげることができることを知っている。

 信頼できるある筋から、今では広島を破壊した爆弾の2500倍も強力な爆弾をつくることができるということがのべられている。

 もしそのような爆弾が地上近くまたは水中で爆発すれば、放射能を持った粒子が上空へ吹き上げられる。そしてこれらの粒子は死の灰または雨の形で徐々に落下してきて、地球の表面に降下する。日本の漁夫たちとその漁獲を汚染したのは、この灰であった。

 そのような致死的な放射能をもった粒子がどれほど広く拡散するのか、だれも知らない。しかし最も権威ある人々は一致して水素爆弾による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあることを指摘している。もし多数の水素爆弾が使用されるならば、全面的な死滅が起こる心配がある。−−瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数のものはじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊していく。

 多くの警告が著名な科学者や権威者たちによって軍事戦略上から発せられている。しかし、最悪の結果がかならずくるとは、彼らのうちのだれもいおうとしていない。実際彼らがいっているのは、このような結果がおこる可能性があるということ、だれもそういう結果が実際おこらぬとは断言できないということである。この問題についての専門家の見解が少しでも彼らの政治上の立場や偏見に左右されたということは今まで見たことがない。私たちの調査で明らかになったかぎりでは、それらの見解はただ専門家のそれぞれの知識の範囲にもとづいているだけである。一番よく知っている人が一番暗い見通しをもっていることがわかった。

 さて、ここに私たちがあなたがたに提出する問題、きびしく、おそろしく、そして避けることのできない問題がある−−私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか? 人々はこの二者択一という問題を面とむかってとり上げようとしないであろう。というのは、戦争を廃絶することはあまりにもむずかしいからである。

 戦争の廃絶は国家主権に不快な制限を要求するであろう。しかし、おそらく他のなにものにもまして事態の理解をさまたげているのは、「人類」という言葉が漠然としており、抽象的だと感じられる点にあろう。人々は、危険は自分自身や子どもや孫たちに対して存在し、単にぼんやり感知される人類に対してではないということを、はっきりと心に描くことがほとんどできない。人々は、個人としての自分たちめいめいと自分の愛する者たちが、苦しみながら死滅しようとする切迫した危険状態にあるということがほとんどつかめていない。そこで人々は、近代兵器さえ禁止されるなら、おそらく戦争はつづけてもかまわないと思っている。

 この希望は幻想である。たとい水素爆弾を使用しないというどんな協定が平時にむすばれていたとしても、戦時にはそんな協定はもはや拘束とは考えられず、戦争がおこるやいなや双方とも水素爆弾の製造にとりかかるであろう。なぜなら、もし一方がそれを製造して他方が製造しないとすれば、それを製造した側はかならず勝利するにちがいないからである。

 軍備の全面的削減の一部として核兵器を放棄する協定は、最終的な解決をあたえはしないけれども、一定の重要な目的には役だつであろう。

 第一に、およそ東西間の協定は、これが緊張の緩和をめざすかぎり、どんなものでも有益である。第二に、熱核兵器の廃棄は、もし相手がこれを誠実に実行していることが双方に信じたれるとすれば、現在双方を神経的な不安状態におとしいれている真珠湾式の奇襲への恐怖をへらすことになるであろう。それゆえ私たちは、たんに第一歩としてではあるが、そのような協定を歓迎すべきである。

 私たちの大部分は感情的には中立ではない。しかし人類として、私たちはつぎのことを銘記しなければならない。すなわち、もし東西間の問題が誰にでも−−共産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人であろうとヨーロッパ人であろうと、または、アメリカ人であろうとも、また白人であろうと黒人であろうと−−可能な満足をあたえうるようななんらかの仕方で解決されなくてはならないとすれば、これらの問題は戦争によって解決されてはならない。私たちは東側においても西側においても、このことが理解されることを望む。

 私たちのまえには、もし私たちがそれをえせぶならば、幸福と知識と知恵の絶えない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、そのかわりに、私たちは死をえらぶのであろうか? 私たちは、人類として、人類にむかってうったえる−−あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。

決議

 私たちは、この会議を招請し、それを通じて世界の科学者たちおよび一般大衆に、つぎの決議に署名するようすすめる。

 「およそ将来の世界戦争においてはかならず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続をおびやかしているという事実からみて、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然とみとめるよう勧告する。したがってまた、私たちは彼らに、彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する。」

マックス・ボルン教授 (ノーベル物理学賞)
P・W・ブリッジマン教授 (ノーベル物理学賞)
アルバート・アインシュタイン教授 (ノーベル物理学賞)
L・インフェルト教授 
F・J・ジョリオ・キュリー教授 (ノーベル化学賞)
H・J・ムラー教授 (ノーベル生理学・医学賞)
ライナス・ボーリング教授 (ノーベル物理学賞)
C・F・パウェル教授 (ノーベル物理学賞)
J・ロートブラット教授 
バートランド・ラッセル卿 (ノーベル文学賞)
湯川秀樹教授 (ノーベル物理学賞)



The Russell-Einstein Manifesto

Issued in London, 9 July 1955 

 In the tragic situation which confronts humanity, we feel that scientists should assemble in conference to appraise the perils that have arisen as a result of the development of weapons of mass destruction, and to discuss a resolution in the spirit of the appended draft.

 We are speaking on this occasion, not as members of this or that nation, continent, or creed, but as human beings, members of the species Man, whose continued existence is in doubt. The world is full of conflicts; and, overshadowing all minor conflicts, the titanic struggle between Communism and anti-Communism.

 Almost everybody who is politically conscious has strong feelings about one or more of these issues; but we want you, if you can, to set aside such feelings and consider yourselves only as members of a biological species which has had a remarkable history, and whose disappearance none of us can desire.

 We shall try to say no single word which should appeal to one group rather than to another. All, equally, are in peril, and, if the peril is understood, there is hope that they may collectively avert it.

 We have to learn to think in a new way. We have to learn to ask ourselves, not what steps can be taken to give military victory to whatever group we prefer, for there no longer are such steps; the question we have to ask ourselves is: what steps can be taken to prevent a military contest of which the issue must be disastrous to all parties?

 The general public, and even many men in positions of authority, have not realized what would be involved in a war with nuclear bombs. The general public still thinks in terms of the obliteration of cities. It is understood that the new bombs are more powerful than the old, and that, while one A-bomb could obliterate Hiroshima, one H-bomb could obliterate the largest cities, such as London, New York, and Moscow.

 No doubt in an H-bomb war great cities would be obliterated. But this is one of the minor disasters that would have to be faced. If everybody in London, New York, and Moscow were exterminated, the world might, in the course of a few centuries, recover from the blow. But we now know, especially since the Bikini test, that nuclear bombs can gradually spread destruction over a very much wider area than had been supposed.

 It is stated on very good authority that a bomb can now be manufactured which will be 2,500 times as powerful as that which destroyed Hiroshima. Such a bomb, if exploded near the ground or under water, sends radio-active particles into the upper air. They sink gradually and reach the surface of the earth in the form of a deadly dust or rain. It was this dust which infected the Japanese fishermen and their catch of fish.

 No one knows how widely such lethal radio-active particles might be diffused, but the best authorities are unanimous in saying that a war with H-bombs might possibly put an end to the human race. It is feared that if many H-bombs are used there will be universal death, sudden only for a minority, but for the majority a slow torture of disease and disintegration.

 Many warnings have been uttered by eminent men of science and by authorities in military strategy. None of them will say that the worst results are certain. What they do say is that these results are possible, and no one can be sure that they will not be realized. We have not yet found that the views of experts on this question depend in any degree upon their politics or prejudices. They depend only, so far as our researches have revealed, upon the extent of the particular expert's knowledge. We have found that the men who know most are the most gloomy.

 Here, then, is the problem which we present to you, stark and dreadful and inescapable: Shall we put an end to the human race; or shall mankind renounce war? People will not face this alternative because it is so difficult to abolish war.

 The abolition of war will demand distasteful limitations of national sovereignty. But what perhaps impedes understanding of the situation more than anything else is that the term "mankind" feels vague and abstract. People scarcely realize in imagination that the danger is to themselves and their children and their grandchildren, and not only to a dimly apprehended humanity. They can scarcely bring themselves to grasp that they, individually, and those whom they love are in imminent danger of perishing agonizingly. And so they hope that perhaps war may be allowed to continue provided modern weapons are prohibited.

 This hope is illusory. Whatever agreements not to use H-bombs had been reached in time of peace, they would no longer be considered binding in time of war, and both sides would set to work to manufacture H-bombs as soon as war broke out, for, if one side manufactured the bombs and the other did not, the side that manufactured them would inevitably be victorious.

 Although an agreement to renounce nuclear weapons as part of a general reduction of armaments would not afford an ultimate solution, it would serve certain important purposes. First: any agreement between East and West is to the good in so far as it tends to diminish tension. Second: the abolition of thermo-nuclear weapons, if each side believed that the other had carried it out sincerely, would lessen the fear of a sudden attack in the style of Pearl Harbour, which at present keeps both sides in a state of nervous apprehension. We should, therefore, welcome such an agreement though only as a first step.

 Most of us are not neutral in feeling, but, as human beings, we have to remember that, if the issues between East and West are to be decided in any manner that can give any possible satisfaction to anybody, whether Communist or anti-Communist, whether Asian or European or American, whether White or Black, then these issues must not be decided by war. We should wish this to be understood, both in the East and in the West.

 There lies before us, if we choose, continual progress in happiness, knowledge, and wisdom. Shall we, instead, choose death, because we cannot forget our quarrels? We appeal, as human beings, to human beings: Remember your humanity, and forget the rest. If you can do so, the way lies open to a new Paradise; if you cannot, there lies before you the risk of universal death.

Resolution

 We invite this Congress, and through it the scientists of the world and the general public, to subscribe to the following resolution:

 "In view of the fact that in any future world war nuclear weapons will certainly be employed, and that such weapons threaten the continued existence of mankind, we urge the Governments of the world to realize, and to acknowledge publicly, that their purpose cannot be furthered by a world war, and we urge them, consequently, to find peaceful means for the settlement of all matters of dispute between them."

Max Born, Perry W. Bridgman, Albert Einstein, Leopold Infeld, Frederic Joliot-Curie, Herman J. Muller, Linus Pauling, Cecil F. Powell, Joseph Rotblat, Bertrand Russell, Hideki Yukawa



核および熱核兵器の使用禁止に関する宣言

1961年11月24日 


 国際連合総会は、
 国際平和と安全保障の維持についての、また同時に軍縮に適用さるべき原則を考慮した場合の国連憲章の下での責任を念頭におき、
 軍縮交渉がこれまで満足すべき結果に達しなかった間に、軍備競争、とくに核および熱核兵器による破局の危険から守るためのあらゆる可能な予防手段を必要とする恐るべき段階に達していることを深刻に憂慮して、
 不必要な人間の被害をひきおこす大量破壊兵器の使用は、1868年のセント・ペテルスブルグ宣言、1874年のブラッセル会議宣言、1899年と1907年のハーグ平和条約会議、1925年のジュネーブ議定書のように、大部分の国家が現在でも参加している国際宣言や拘束力のある協定によって、人道と国際法に反するとして禁止されたことを思いおこし、
 核および熱核兵器の使用は、人道に反し国際法の下での犯罪であるとするこれらの国際宣言や協定によって禁止された兵器の使用より、はるかに大規模に人類と文明に無差別の災害と破壊をひきおこすであろうということを考慮して、
 核および熱核兵器のような大量破壊兵器の使用は、国際連合が、戦争の苦悩から今後の世代をまもり、文明の保存と振興を達成しようとして確立した崇高な理想と目的を直接否定するものであると信じ、

(一) (a) 核および熱核兵器の使用は、国際連合の精神、意義および目的に反し、したがって国連憲章に直接違反するものであり、
 (b) 核および熱核兵器の使用は、戦争の目的をさえ逸脱して人類と文明に無差別の災害と破壊をひきおこすだろうから、国際法の規定と人道に反するものであり、
 (c) 核および熱核兵器の使用によって生ずるあらゆる害悪は、戦争にまきこまれていない世界の人民にも及ぶだろうから、核および熱核兵器の使用は敵にむけられた戦いであるだけでなく、全人類に対する戦争なのであり、
 (d) いかなる国であっても、核および熱核兵器の使用すれば、国連憲章に違反し、人道に反し、人類と文明に対する犯罪をおかすものとみなされるべきである。

と宣言し、
(二) 事務総長に対して、核および熱核兵器を戦争のために使用することを禁止する協定に調印するための特別会議を招集する可能性について、加盟各国政府の見解を確かめるために各国政府と協議し、第17回総会にその結果を報告するよう要請する。




公正な世界秩序のための10の基本原則

  1. 各国議会は、日本国憲法第9条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである。
  2. すべての国家は、国際司法裁判所の強制管轄権を無条件に認めるべきである。
  3. 各国政府は、国際刑事裁判所規程を批准し、対人地雷禁止条約を実施すべきである。
  4. すべての国家は、「新しい外交」を取り入れるべきである。「新しい外交」とは、政府、国際組織、市民社会のパートナーシップである。
  5. 世界は人道的な危機の傍観者でいることはできない。しかし、武力に訴えるまえにあらゆる外交的な手段が尽くされるべきであり、仮に武力に訴えるとしても国連の権威のもとでなされるべきである。
  6. 核兵器廃絶条約の締結をめざす交渉がただちに開始されるべきである。
  7. 小火器の取引は厳しく制限されるべきである。
  8. 経済的権利は市民的権利と同じように重視されるべきである。
  9. 平和教育は世界のあらゆる学校で必修科目であるべきである。
  10. 「戦争防止地球行動」の計画が平和な世界秩序の基礎になるべきである。

ハーグ平和アピール市民社会会議(Hague Appeal for peace Civil Society Conference, May 11-15, 1999)は、会議中の討議をとりまとめる「10の基本原則」を発表した。このハーグ・アジェンダはアナン国連事務総長に手渡され、国連の全公用語に訳されて、国連の公式文書となった。



(c) J. Shinshi
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